私がフィリピンの語学学校マネージャーの道を選んだ経緯

はじめまして。友人塾マネージャーのアキヨです。(写真右)
フィリピン留学ではかなり珍しい学校名が漢字の語学学校です。学校の命名エピソードは、またどこかで。
さて今回は、出会った人によく聞かれる「私が学校マネージャーの道を選んだ経緯」についてお話したいと思います。
正直言いますと、今自分のいる場所は4年前の私には全く想像もつかない未来でした。人生って、何があるかわからないですね。
高校で保健体育教師をしていた私が、現在はフィリピンの英語学校のマネージャーだなんて。
そんな私のここに辿り着くまでの経緯を皆さんにシェアします。実際に行動を起こすことで、人生が劇的に変化することを強く実感しています。
将来の人生の方向性で迷ってる方に、何かしらのヒントになれば幸いです。
フィリピン留学との出会い
1.私の人生って薄っぺらい
教師1年目から感じていた違和感。それは生徒を前にした時の自分の人生の薄っぺらさでした。
高校生は学校を卒業後は、進学する人もいれば、就職を選択する人もいる人生の大事な分岐点です。そんな時に力になりたくてもなれない、自分の無力さを感じていました。
今まで引かれたレールを走り続けてきた人生。人生について深く考えることなく、何となくここに立っていました。
そのため、いざ生徒の求めるものに答えようとしても「アレ?なんて答えたらいいかわからない。」という状況が度々ありました。
「こんなんじゃ、先生をやってても仕方がない。」
生徒に関われば関わるほど、その思いは強くなりました。
そして、3年目に大好きだった教師の仕事を辞めました。
2.どうせなら海外進出だ!
仕事を辞める前から次のことは決めていました。それは、オーストラリアへワーキングホリデーに行くこと。
視野を広げたい、今まで経験したことのないことに挑戦したい、様々な人に出会いたい。そう思っていたので、このまま日本にいてもきっと変わらないと思いました。
「だったら、海外に行くしかない。」
そこでまず始めたのが情報収集。偶然にも、留学ドットコムさんのワーキングホリデーのセミナーに参加しました。回し者みたいですが、事実です。(笑)
そこで初めて「フィリピン留学」を知りました。
当時、英語初心者で海外も初めてだった私には、まさにフィリピン留学はワーキングホリデー前には打ってつけの事前準備でした。仕事を辞めてすぐ、フィリピンのバギオへ飛び立ちました。
3.決めた!ワーキングホリデーには行かない!
「嘘でしょ!?」って思いますよね。
半年の留学を終えた後、予定していたオーストラリアには行きませんでした。
理由は、「フィリピンでも自分の欲しい体験や価値観を得ることができる!」とわかったから。
バックグラウンド、年齢、国籍の違う人達との出会いも含め、もう少しバギオで過ごしたと思いました。
そして、もうすぐ留学が終わるというタイミングで、バギオで出会った語学学校の副校長からスタッフの仕事をやらないかと誘って頂きました。
もちろん、その時の答えはイエスでした。

→ フィリピンで学校経営に関わる道を選ぶことに。アキヨ(写真中央の白Tシャツ)
やっぱり教育関係の仕事が好き
1.自分で学校を作りたい!
バギオの語学学校では、1年ちょっとスタッフをしました。
多国籍な環境で英語を通して、様々な生徒と向き合える時間が何より充実していました。
もちろん、楽しいことばかりではありませが、その人の人生の一部に携われること、目標を一緒に応援できることがとにかく嬉しかったです。それと同時に、ジレンマを抱えるようになりました。
学校、先生、生徒の3つの立場を考えた運営。
「それぞれが幸せになれる環境は作れないのか?」と考えるようになりました。
しかし、今いるポジションではそれを作ることは出来ないと痛感していました。
だったら、どうするか。その理想を自分で作るしかないとそこで決意しました。
2.フィリピン留学の母、MMBSの佐藤さんと出会う
フィリピンにある語学学校は十人十色。学校の規模、経営者の国籍、地域によって様々です。
そんな私は、小規模、中規模の学校を体験したことはあっても、生徒数300人以上の大規模な老舗校は体験したことがありませんでした。
そこで、次にスタッフとしてお世話になった学校がターラックにあるMMBSでした。MMBSは2000年から続くフィリピン留学では歴史ある語学学校。
そちらには、当時現地スタッフとして10年の経歴を持つ大ベテランの佐藤さん(上部写真左)がいました。「これは一緒に働いて、学ぶチャンスだ!」と確信しました。
実際に、佐藤さんからここには書ききれないほど多くのことを学ぶことが出来ました。
仕事や運営のことはもちろん、フィリピンの穴場的観光スポットやどんな時でも人生を思い切り楽しむ心得など、本当に色んな事を教えて頂きました。
そして、その意思を引き継ぎ、次のステージへ進みました。
3.友人塾オーナーとの出会い
私が友人塾オーナーの大石さんと出会ったきっかけ。それは、MMBSの佐藤さんが私に大石さんを紹介してくれたことが始まりです。
大石さんは友人塾を立ち上げる前は、日本の大学と提携し、フィリピンで独自のインターンプログラムの提供を行っていました。
そして、英語面でのサポートをより充実させたいと英語学校(友人塾)の立ち上げを検討していました。
そのことを知っていた佐藤さんが同じく学校を作りたいと考えていた私を引き合わせてくれました。
奇跡のような偶然。
そして去年、フィリピンで出会った多くの方々の支えにより、友人塾を設立することが出来ました。
友人塾マネージャーの仕事をご紹介
友人塾は、受け入れ人数が10名までの小規模な学校のため、総合的に学校運営に関わっています。主な仕事は、以下の通りです。
・先生の雇用、スタッフの教育
・マーケティング
・旅行の企画と引率
学校の中心となって運営を行うので、これまでの自分の経験やアイデアを実際に運営に反映できるようになりました。
その分、責任も感じますが、今まで味わったことのないやりがいを感じています。
またオーナーの大石さんは、1年の半分以上フィリピンにいるため、助けてもらうことも多いです。そして、いつも見守ってくれています。
夜遅くまで友人塾のビジョンや生徒ひとりひとりについて、話し合うこともよくあります。
校長のジャネットさん(大石さんの奥さん)は、料理上手で知られるパンパンガ出身でその腕前は抜群。
献立の作成やキッチンスタッフの指導をお願いしています。
学校運営にあたり大変なこと
学校運営において大変なことのひとつに、ここが海外であるということが挙げられます。
日本のように予定通り、約束通りに進むことは実感としてほとんどありません。
特にここはフィリピンなので、斜め上の展開になることもしばしば。
それがある意味、海外で働く面白みでもあるのですが。(笑)
とにかく、それがダメだった時にどのように対応するかということを常に考えています。
最初のうちは、戸惑いや落ち込むこともありましたが、今では「やっぱりそうきたか。じゃあ、次はこうしよう。」と心に余裕を持って対応できるようになりました。
これは経験を通して、少しずつ鍛えられることだと思います。
何かトラブルがあっても、そこから学んで次に繋がるように行動することを意識しています。
学校運営でこだわりを持っていること
私は学生との関わりを大切にしています。
私自身、半年間フィリピンに留学したこともあり、その時に現地スタッフの重要性に気付きました。海外で生活しているといろんなことが起こります。
勉強に関する悩みだけでなく、生活面で悩んだり不安になったりすることもあります。そのどちらも解消する手助けをすることで、目の前のことに集中できる環境が整います。
また、留学に来る方には、人生や生き方について悩んでいる人もいます。
生き方の多様化が進むなかで、じっくり自分を見つめ直したいと立ち止まる選択肢として留学を選ぶ人もいます。
そんな人たちの人生に寄り添い、サポートをしたい。
そして、友人塾が人生のターニングポイントでありたいと思っています。
ひとりひとりと向き合う時間を確保するため、また手厚いサポートが提供できるように友人塾では受け入れ人数を10名までに限定しています。

→ 卒業する生徒さんとの記念撮影。アキヨ(一番左)、オーナーの大石(右側男性)
学校スタッフという仕事の魅力
学校スタッフという仕事の魅力は、いろんな出会いがあること。
限られた時間であっても、例えそれが短期間であってもその人の人生に携われたことで、私自身の人生が豊かになっていきます。
留学には、バックグラウンドも年齢も違う様々な人が訪れます。一緒に暮らし、生活するなかでいろんな刺激をもらいますが、いつもそこには学びがあります。
また卒業後も繋がりがあり、日本で再会することもひとつの楽しみです。その後の活躍を聞くことで仕事への励みになります。
これからの友人塾の運営について
友人塾は、地域に密着した学校です。現地にいる人達の力を借りて、運営しています。
そのため、ミッションのひとつに地域社会への貢献を掲げています。
今までの活動として、主に生活用品の寄付、災害地域への物資の支給、炊き出し、植林等を行ってきました。
ユニークな活動では、ターラックのギター職人が手がけるウクレレの販売も行っています。職人気質のタバナオさん一家が一本一本丁寧につくっています。
月に商品が5本売れることで生活が回るので、その支援もしています。
今後は物理的な支援だけでなく、教育的支援にも力を入れたいと考えています。
現在、フィリピンの学校では、日本語教育を推進しています。
友人塾では、以前から日本の言語や文化を現地の学校にシェアする機会を提供してきましたが、今後はプログラム化し、本格的な活動にしていく予定です。その他にも、まだ正式な発表はできませんが、いくつか計画を進めています。
今までの支援を継続しつつ、今後はさらに活動の幅を拡大し、日本とフィリピンの架け橋となることが目標です。